読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

T-Photography

写真をもっと考える。

写真には3つの選択がある -ボツ写真が多くても、撮る量は減らさない-

写真

 

引きの強いタイトルをつけたけど、別に大して面白いことは言わない。フツーの事を言う。

選択の1つ目は、何を撮るかの選択。
2つ目は、撮った写真のうち、どれを選ぶか(ボツにするか)の選択。
3つ目は、どう現像(レタッチ)するかの選択。

写真を撮るのは「Take a photo[picture]」という。「Make」じゃなくて「Take」というのは、僕にとってはしっくりくる表現で、だからこそ、写真は「選択する表現」だと思う。

フィルムは撮らないので分からないけれど、デジタルで撮っていると、写真を「撮る」から「仕上げる」までは、ただひたすらに選択の連続だと感じる。

 

撮影

写真を撮っている自分を観察してみると、まず必ず何かを見つけている。

対比的に考えてみると、googleマップに使われている写真は選択されていない写真だ。全ての場所で全ての角度をひたすら撮りまくっている。つまり、何かと何かを分けて選択しているわけではないし、だから当然個性はない。個性がないからこそ高い汎用性を持って多くの人に見られている。

 

人間が写真を撮る時はそんなことはフツーしない。何かを見つけて、見つけたポイントで撮る。そこで、視界全体からある部分を選択している。さらに、それをどの位置からどの角度で撮るのかを選択しているし、カメラに目を向ければ、どの露出、レンズで撮るのかを選択している。

 

 

選別

撮った写真は記録として全て残している人もいるだろうけれど、僕の場合は、気に入らない写真はどんどんボツにして、ボツ写真は最終的には完全に削除する。

ここにも当然選択がある。

撮った中から、「良い写真」と「ダメな写真」に分けていく。もちろん、すぐ決められないものもあるから、何周もする。一旦ボツにしたものを考え直して採用したり、現像してみてから決めたりする。

とにかく、選択して撮られた写真の中から、さらに残す写真を選択する。

 

RAW現像(レタッチ)

で、「良い」と判断した写真をRAW現像(レタッチ)する。これは、それまでの選択に比べれば、「Make」の香りがするけれど、それでも、これもまた選択だと思う。

パラメータのある数値を選択する。パラメータ同士の組み合わせを選択する、というイメージ。

 

というのも、写真はその性質上、まったく白紙から色合いを作るわけじゃない。CGみたいにレタッチするならまだしも、まあ「写真」と判断される仕上げにするなら、例えば人の白目と黒目を同じ色にはしないわけで、その制約の中で、「ある組み合わせを選択する」という感覚が僕の中にはある。

どれくらいのコントラストにするのか、彩度感にするのか、硬めか柔らかめか、どの色が基調になるようにするのか、カラフルにするのか、落着いた感じにするのか。もっとトリミングするか、傾けるか。

抽象度の高い選択から、「この数値」というような具体的な選択までを不可分にやっている感じ。

そして、最後に「この組み合わせ」と選択すれば、1枚写真が仕上がる。

 

「絵」も選択か?

ここまで言ってしまうと、「絵を描くことだって、線の選択や色の選択の連続だ」ということも言える。

それは、たしかにそうだと思う。というか、広義に意味を取っていけば、人の行為のあらゆるものは「選択」かもしれないけれど、ここで言う「選択」は、まあ、もっと日常的な意味で使いたい。

「絵はゼロから描いているけど、写真はあるものを選んで撮っている」というのは、反論しようと思えばできても、一応素直に受け入れられる見方だと思う。

 

まあ、細かい話は回避して。

絵の場合は、手や体の動作と描かれる線や形に関連がある。写真はない。カメラを操作する動きと、できあがる画像にはなんの必然的関連性もない。

まったく同じ動作をしていても、女性にカメラを向けているのか、富士山にカメラを向けているのかで、まったく違う画像が出来上がる。この「向けている」というのが、選択だし、その選択に写真の始まりがある。

最初に選択ありきだから「選択の表現」だな、と僕は思う。

 

選択の余地を減らさない

 

で、選択の表現だからこそ、後の選択の幅を広めに残しておくのは大事だと個人的には思っている。

「いや、ひとつひとつの選択を切り詰めていくべきだ」という考え方もあると思うし、その方が玄人だと思う。が、僕はそうしない。

 

写真を始めた当初に比べると、ボツ写真はどんどん増えている。

 

僕は1日撮影に出ると、だいたい800〜1500枚くらいの写真を撮る。1000枚前後が多い。それは、写真趣味を始めた時も今もあまり変わらず、この範囲内くらいになっている。

というか、変わらないようにしている。

 

写真を始めた当初は、1000枚撮れば、200枚くらいは残していた。ボツ率は80%くらい。今では、1000枚撮って100枚残ることはまずない。多くても50枚くらい。ボツ率95%。

これはどう考えても撮影時に無駄撃ちし過ぎなわけだけど、無駄撃ちだと思っても、一応撮るようにしている。それはつまり、「選別」の選択肢を狭めないように。

撮る段階で「選択しない」ことはできるけれど、その選択が間違っていることもある。「これはボツになるだろうな」と思いながら撮った写真が意外とお気に入りになる場合もある。

 

そんなことを言い出したら、選別時に間違えているかもしれないし、現像時に間違えているかもしれないから、答えは出ないわけだけど(だから、選別や現像の時、時間をかけて何周もする)、3つの選択の中で取り返しがつかないのは撮影時の選択。

選別、現像はとりあえず選択して、間を空けて見返したりできるけど、「撮影しない」という選択をした光景は、もう戻ってこない。

 

撮影時に全てを見通して、的確な判断ができるようになるのが理想なんだろうか。

あえて言えば、無駄撃ちを控えるようにすると、経験からしか選択ができなくなってしまう。「ボツかな、と思った写真が意外と良い」というのは、「経験的にダメだと思われた物が実は良かった」という新しい価値の発見でもある。「こういう光景は意外と良い写真になるんだ」という学びにもなる。

上達はファインダーを覗いている時にだけあるわけじゃない。だから僕は、ボツ率がどんなに上がっても、ちょっとでも気になった光景は撮るようにしている。

広告を非表示にする